昔の話・・・その2;富士スピード・ウエイ

当時はモータースポーツ草分けの時代だつた。大きいサーキットとしては、西の鈴鹿サーキット、東の富士スピードウエイ位だった。まだ、この時代はアマチュアでも頑張ればファクトリー(トヨタ・日産・マツダ・ホンダ・いすゞダイハツ等)と何とか戦える時代だったが、やはり技術力、資金力では厳しかった。また、モータースポーツ用の部品は乏しく、無ければ作らなければならなかった。レギュレーションもそれなりであった。富士スピード・ウエイの有名な30度バンクで右回りであった。
ストレート・エンドからバンクに飛び込む景色としては、ストレート・エンドからバンクがつながって見えないのである。ストレート・エンドが終わると空間が有りその先に30度バンクが壁の様にぽっかり見える様な景観なので、あるドライバーなどは、そこで大きい声を出して飛び込んで行く言う話を聞いた(私は、しなかった)。勿論、サーキットとしてはつながっているのだが、下っているので、そう見えるのである。

レース前の下見で、30度バンクを歩いて上ってゆくとスニカーを履いていても、手を使って4っんばい、になってゆかないと滑り落ちてしまう。

30度バンクの走り方は速度の速い車は1番上の方、次は2番目のライン。3番目が速度が低い車に、きちんとすみ分けられて、走行していた。私のマシンは、2番ラインである。バンク走行中どのドライバーもラインは変えなかった。
バンク走行中は、強烈なGと、どんなマシンでも最高速に達している。2番ラインから、1番ラインで追い抜いて行くマシンを見ると、ドライバーの腿位まで見えるし、タイヤを見ると進行方向に対して、ホウキ星のホウキのようにタイヤに無数の皺が発生して回転しているのがよく見えた。さすがにぞっとする。それ以来、地上を走る乗物は、タイヤが1番大事だと思う様になった。それは、今でも変わらない。地面と接しているのは、タイヤだけですから。

バンク中段、中ほどに、ラクダのこぶ見たく凸があり、サスのセッテイングとライン取りもあるが、F・R車などはプロペラ・シャフトなど損傷していた車もあ。プロペラ・シャフトの速い回転の為、くの字になりマシンの床に接触したり、(サス・セッテイング)強度が足りなったりしたらしい。また、回転バランスもとらなければならなかった。(以前所有していた、カマロ94’5.7LフルチューンのときはアメリカT・P・I製のレース用のアルミ・合金に変えた、これは、またの機会に・・・・)。最低地上高は、確か10cmだったと思う。

バンクの終わりから右に回り込んで行くのだが、ここで、全制動をかけないと飛び出してしまう。0.8G〜1.0G位かかる。
丁度、エスカレーターで急に下降した時にフートなるようなものの強烈なものである。バンクやここで失神して何人かのドライバーが飛び出してなくなっている。モタースポーツは、スポーツなので体を鍛えていないとだめなのである。特に動体視力は大事である。

バンク終わりからの、100Rは、私が最も得意とするカーブでほとんど、速度を殺さずマシンは4輪軽いドリフト状態でヘアーピンに向かう。(現在では、タイヤのグリップ性能や、コンプューター制御でグリップ・走行が主流)。

ヘアーピン手前での、ブレーキングであるが、右ハンドル車なので、当然ドライバーは右のドライバー・シートで運転しているので、右側の前輪に重さが加わっているので、左側前輪の方が重さが軽いので、一瞬白煙が上がる。これぐらいの、コントロールができなければ、早くは走れないのである(最近ではABSがあるが)。


ヘアーピン立ち上がりまでは、他のファクトリーマシン(サニー・ベレット・スカイライン・サバンナ等)と互角の速さで走れた。
ヘアーピン立ち上がってからは、左によけて、お先にどうぞでお互いに手をあげて走っていた。

その先は、最終カーブまでの直線と上り坂右の最終カーブなので、馬力の多いマシンにはとてもかなわなかった。
そのころは、いやというほど馬力の差を体験していたので、馬力至上主義的になっていた(最近は、少し違うが)。
“最高速は馬力・加速はトルク”なのである。

富士スピード・ウエイの回り方は、フル・コースバンクの右回り、4.3km右回り、左回りの4.3kmとあったが、私は、左回りの4.3kmが好きだった。

当時、出場していたのは、主に耐久で富士1000km、富士500マイル(約800km)であった。
耐久レースは、スプリントレースよりも費用がかかるが長い時間レースを楽しめるし、非力なマシンでも壊さず走り切れば、何とかなる。また、チーム体制・メカニック・ドライバーその他運営等学ぶことが多かった。

レースとは、出場すると申請書を出したときから、レースが始まっているのである。決勝当日はある意味お披露目日、かも知れない?